昭和47年3月1日 月次祭
                                        中村良一


始まりに、皆さんに、お願いを先に申し上げます。あの、明日、明後日、三月三日、親教会の報徳祭でございますから、えー、どうぞ、沢山お参りをいただきますように。十時半のお祭りですから、十時ごろまでに、えー、善導寺の久保山さんところにお願いいたしまして、あちらで、えー、集まって、そして一緒にお届けをさせていただきたいと思います。明日、明後日、三日の十時半からでございます。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。
えー、二月の月は、走り月というふうに言われておりますが、本当に、あっという間に、二月が過ぎました。いろいろな事がございました。えー、なかに、えー、とりわけ、えー、今年は、暖冬異変と言われております。本当に、えー、寒さ知らずの、おー、冬から春にかけてでございましたが、えー、もう、いよいよ、三月の声を聞こうかという頃から寒くなりました。ほいで、もう、三月に入って、今日あたりも、おー、朝から、白いものがちらちらするというような事でございます。
えー、最近、久留米の、おー、在のほら、小森野という、お野菜つくりの有名な村がございますがね。あちらの方達が、毎朝、朝の御祈念に、四、五人づつ、毎朝、最近の参りがあります。それに、「先生、今年という月、もう、百姓にとりまして、もう、作物の上に、もう、叩かれた上にも叩かれて、えー、そしてなお、えー、急にまた、この、寒く、寒いときにはぬくく。これからぬくくならねばならんという時に、寒うなってまいりまして、もう、それこそ、踏んだり蹴ったりの状態でございますが、大体、どういう風に神様にお願いをしたら良いでしょうか。」と。昨日、一昨日の、西日本新聞でしたかね、これもやっぱ、宮の陣の、もう、それこそ、まあ、写真の模様ですから分かりませんけれども、それこそ、おー、一町ぐらいありゃせんだろうかと思うような、ずーっと広い田んぼに、沢山の大根が引いたままになって腐っておる。もう、本当に勿体ない。これをお百姓さんとしてから、これを神様に、どう申し上げたら良いだろうかと。「もう、こげな年は無か。」と。「もう、本当に百姓泣かせの年だ」と。と、言うだけではなしに、何とか、神様に、お願いをなんと申し上げたら良いだろうかという、この惨状を、おー、見て、ね。自分たちが作った苗が出来損ない、出来たかと思うと、寒でやられるといったような事で、もうとにかく、踏んだり蹴ったりの状態だとこう言われる。私は申しました。そうですね、お願いもさることながら、ね。私はもう、こら、天地のことは、ね。人間の眼をもて、知りて知りがたきもの、恐るべしと仰るくらいですから、天地のことに対して、例えば、不平不足を言うだけの、おー、いうなら、資格はない私達。ね。ですから、分かりませんけれども、とにかく、私は、願うよりも何よりも、お詫びをするより他になかろうと思いますと言うて申したことでございます。これでも分からんか、これでも気が着かんかと。本当に、暖冬異変だけではありません。世の中が、どうかひっくり返っておるのじゃなかろうかと思うようなことが、次々と起こっております。二月の月でも、随分いろんな事がございました。ね。二、三日前は、あの、軽井沢事件。もう、本当に、えー、悲しい出来事でございますよね。いわゆる、異変から異変に、それこそ、何とはなしに天地の怒りを買っておるような感じの、おー、最近でございます。皆さん、どういう風に、まあ、感じられるか知れませんけれども、例えば、お月次祭が始まる前に、ね。あの、大幣行事(おおぬさぎょうじ)がありまして、こう、お祓いを受けます。ね。本当にです、ね。全世界がお祓いを受けておる、いや、お祓いを受けなければならない、何かそういう時期が来ておるような気が致します。これは、私、個人の上においてもそうですけれども、あの、お祓いを受けるときに、少しでも、不浄汚れ、お粗末御無礼がです。あのお祓いによって、少しでも祓われるならと思うて、頭を下げておると有難いですね。あれは、ただ、形式じゃないです。そういう心を、私は起させて下さるためのものだと思うです。ね。祓いの神風がさやさやと、頭の上に、こう、ね。清々しい音を立てる。私共の、お粗末御無礼が、ね。少しでも、お詫びが、または、お粗末御無礼が、祓われる思い。ね。そこで、私は、今月、三月という月はです。まあ、いろんな意味においても、ね。社会問題、世界というような大きな、あー、表現をしても良いと思いますけれども、ね。社会に、現在起きておる様々な問題。いわゆる、第一にあげられるのが、公害でございます。もう、全世界をあげて、これに取り組んでおる。その公害問題を、いかに処するかと。という事で、皆さんが頭を悩ましております。ね。これとてもです、私は、人間氏子の、いうならば、お粗末御無礼、思い上がりが、今日の現状を見ておるんだと思います。ね。自然を征服するとか、人間の知恵やら力で、ね、神様にそれこそ、相対するような事を平気で言う。ね。不自然なことを平気でやる。お粗末御無礼の限りが尽くされたところに、自分たちの、言うなら、手で、自分たちの首を絞めるような状態になっておるのが、現状だと思うのです。いわゆる、世界中の現状なのです。それで、なら、人間が、ね。その事に対して気が着き出して、まあ、それに対するところの対処策を練っておるわけでございます。ね。そこで、宗教人である、信心、神様と拝ませていただく私達がです。ね。その人間の、許されない思い上がりのところをです。ね。平身低頭、大地にひれ伏して、天地に対するところの、お詫びがなされない時のように思います。ね。私共がです、信心の分からない。ただ、どうすりゃ良いか、どうすりゃ良いかというて、右往左往をしておる人達は、まあ、それとしまして、本当に少しでも分からせていただいた。いわゆる、暖冬異変に次ぐ、また、いわば、この、んー、寒さ。ね。あべこべになっている。ここにね、私共人間が、素直に、ね。その事実に目を落として考えなければならない時期を神様が求めておられるように思う。そうです、まあ沢山の、白菜やら、大根やらが見事に出来た。天地のお恵みによって出来たのが、そのまま、また腐らせていかなければならないというようなことになっておるという事は、願うというよりも、頼むというよりも、ね。どこにお粗末御無礼があるやら分かりません。その、お粗末御無礼に対するところの、心から、謙虚な心で、天地に詫びていく以外にはない。ひたすら詫びていく以外にはない。教祖の神様の、言うなら、御一新、ご一家の上に、次々と起きてくる難儀な問題。それこそ、七墓を築くほどしの難儀なものいが降りかかってくるような場合にあってです。どうぞ、ここから助けてくださいというのではなくてです。ね。人間、生身の事でございますから、どこにお粗末御無礼があるやら分かりません。どうぞ、平に平にお許し下さいという姿勢を持って、天地の親神様におすがりなさった。ね。ただただ、ひたすらお詫びをし抜かれた。そこに、神様の、いわば、本当のお姿というものが、天地金乃神として現れなさることになり、金光大神に一礼を申すというほどしのことになり、世界の難儀な氏子の為に、取り次ぎ助けてやってくれという、神頼みという事にまで、進展してまいりまして金光教が生まれた。そういう、教祖様の、あられかたをくさ、今の時代にこそ、現さなければならない時ではなかろうか。これは私、一新一家という事ではない。社会の上に起きておる、様々な難儀な問題。ね。それが、とても、ただ事とは思われないような問題。ね。社会情勢なんかでもそうです。まるきり、子供の喧嘩のような、この頃まで喧嘩しよったかと思えば、もう、今度は仲ようなろうやと言ったような、(はっ)もう、とにかく、おかしな時代であります。ね。そういう時代にあってです。信心をさせていただくものだけぐらい。せめて金光教の信奉者だけぐらい。いや、せめて、合楽に御神縁を頂いておる人達だけぐらいはです、ね。そういう難儀もさることながら、その元にあるところのものに気付かせていただいてです。お詫びに徹しさせていただく人間の思い上がりについてのお詫び。それこそ、おかげを頂きすぎるほどしのおかげに対するところの、お礼の足りないお詫びをです。心からさせていただかなければならない。ね。近い問題は、ね。いわゆる、暖冬異変と騒がれる、それこそ、ね。私共は、あー、二、三日前、初めて初雪を見たと。もう、三月の声を聞こうという時から寒くなってきた。ね。そこで、作物なんかには大被害が続出しておる。困ったことじゃ、困ったことじゃという前に、私共は心から、天地に対するところのお詫びの姿勢を取らせて頂かねばならぬ。同時に、おかげを受けておる御礼を申し上げなければならない、お礼の足りないお詫びを、心からさせていただかなければならないと思うのでございます。そこで、私は、この三月という月はです。もう、合楽をあげてです、お礼の足りないお詫びを申させていただく月にさせていただきたいというように思うのですが、皆さん、どうでしょう。「そんなら、どげなこつばお詫びしたら良かですか。」という人があるかも知れません。ね。大は、只今申しますように、世界の難儀。それを、最近では、公害が第一にあげらます。なるほど、その公害のために、沢山の人が苦しんでおります。いわゆる、自然を取り戻せというような声はしきりとしております。ね。ですから、そういう自然を取り戻させて頂けれるおかげ。お恵みの中に、本当に、安楽なおかげの頂けれるおかげを頂くためにもです。ね。過去の私共のお粗末御無礼、怠慢。いわば、御無礼。ね。横着、御無礼。ね。思い上がり御無礼。ね。その思い上がりの結果が、今日のような状態になっておるんだという事になるとすると、いよいよ、お詫びをさしてもらわなければならない。いわば、金光様のご信者は、社会の、言うなら、天地に対するお詫び係というような気持ちで、お詫びをさせて頂かなければならない。
昨日も、夕方、お広前に出てまいりましたら、もうその、まあ、びっくりしたんでしょう。嫁があの、目に涙をなげて、「おかげいただきました」と、そこんとこで言う、申します。「なんじゃったの」というたら、「東京が震災でした。」丁度、ラジオを入れましたら、東京のその、おー、震災の模様を伝えておるところなのです。都電も止まり、いわゆる、電気も、電車も、おー、ストップ。あの、五十何階の、あの、霞が何とかという、大きな高層ビルがあります。あれがね、こちらから見よっと、こんなゆらゆらするのが、はっきり見えたというぐらいにひどかった。もう、家のものもびっくりして、まあ、表に飛び出した、まあ、程度のところでおかげを頂いたという事でございますから、お礼を申し上げて下さいというて、まあ、嫁が申します。まあ、あの、関東大震災のことのようにならなくて、本当に有難かったんですけれどもね。とにかく、あっと思うとか、はっと思うようなことが、この頃起きておるという事なんですよね。私共は、本当に自分たちのこともさることながらです。そういう、大きな意味合いにおいてのお詫びを、私共は、ほんとに心からさして頂かなければいけない。私は、ここ四、五日、どうしても朝の御祈念が、十五分ぐらい伸びるんです。もう、今、申しますように、ね。今まで通りのことではなくてね。もうそれこそ、御礼の足りないお詫びを思いよったらもう、出てくる、出てくるお詫びを、芯からさせていただかなきゃならんのです。もう、神様のご神前だけで一時間かかるといったような感じです。ね。こら、御祈念の時間を少し延ばさしていただかなならんだろうかと思うぐらいに、えー、あります。ね。本気で、私共が一つですね、謙虚な姿勢を持ってお詫びをさせて頂く。今月は、とりわけそのようにです。ね。世界、社会の問題から、ね。様々、今、現在、えー、世界中の人間が、あー、感じておるところの、難儀の根本というものをです。人間のお粗末御無礼から、ね。横着、怠慢から、ね。起きておるものとして、その人間の思い上がりに対して、お詫びをさせていただかなければならぬ。ね。勿論、自分自身の事においては、尚更のこと。いよいよ、自分というものを、どこをお詫びして良いか分からないような事では、私はおかしいと思う。ね。勿論、精進の足りないと言ったような事は、勿論。ね。とにかく、これほどしのおかげを頂いておるのにもかかわらず、その、おかげの事を気付かずに。ただ、難儀なことだけを、言うておるといったような事ではおかげにならん。ね。それこそ、いよいよ、自分というものを深く深く見極めさせて頂いて、ね。お詫びをさせて頂く。そこで、只今も申しますように、ね。お祓いを受けるときの皆さんの実感が、これで、ささやかなりとも、お詫びが清められ、ね。お粗末御無礼が許されるなら、有難いと、私は実感するほどしの自分自身というものを知らなければいけないと思う。何のためお払いをしよっじゃ。あー、ね。お祓いには間に合わん人が沢山あるぐらいな事。まあ、お祓いを受けてです。そういう、私共、個人個人のお粗末御無礼が、いかに、少しでも祓われるとするなら、有難いと思わせていただくと同時に、私共が、日常生活の上に、そういう姿勢におりますときにです。ここは一つ、言わにゃおられんという時に、そのお詫びの印という事になったら、その事が大変有難いことになってくる。こうしたいと思う時であっても、ね。それが我情であり、我欲である場合などはです。ね。どっこい、お詫びをさせて頂いておる身分であるお詫びの印に、ここはひと辛抱させていただこうという気になると、そのお詫びが、大変有難いものになってくる。今月はね。そういういき方で行きたい。ね。朝参りをする方達が、ああ眠たい。けれどもです、ね。お詫びの印に、さあ、このしるしの中に朝参りをさせていただこうという気になる。しかも、それは、小さい、自分自身のことから、自分一家のことから、大は、世界中のことから、社会のことに至るまでです。とにかく、天地の怒りを頂いておるような感じのする最近、この頃。ね。その事に対して、私共が、お詫び係としてです。本気で、ね。世界中の氏子に成り代わって、天地にお詫びをさせて頂くということは、ね。それは、ね。世界中の事を願うという事と、私は、同じ意味合いになると思うです。世界真の平和、世界総氏子の、身の上安全。これはなかなか、ね。拝詞の中に唱えてはおる。拝んではおるけれども、実感として、なかなか頂けないけれども、現に、ここに難儀を目の当たりに見ておるとです。ね。これは、ただ事ではないぞと。なるほど、暖冬異変というような言葉で、今年の冬を言われておりますがです。ね。これは、世界中の、一つの異変だ。ね。世界中の難儀である、問題である、その問題を、私共が、見せていただくときにです。実感として、世界中の氏子が、心を入れ替えなければならないときが来ておる。人間の思い上がりというものを捨てて、謙虚に、自然に対するところの、神恩報謝の生活が求められておる。それを、分からせていただくのは、信心させて頂くものなのです。ね。そら、信心が無くてもです、ね。偉い学者の方が、人間が月の世界にも行けれるほどしの事になってきた時に、そういう事が、人間の力で出来るようになったけれども、幸せはやってこない。そこにはじめて気がついたのが、ね。これは心だと。心だと言っておる。そこまでしか分かってない。ね。これは、心の持ち方というものを、これはちっと考えなければいけないぞという事になってきた。ね。それを、ここでは、和賀心時代を作るという、神様の願いに応えての、ま、ささやかな運動が、合楽から展開されておる。ね。そん前に、私共はです。その、世界の難儀、社会の難儀というものを、直視させていただくときにです。これは、ただ事ではないぞと気付かせていただいて、ね。せめて、金光様のご信心を頂いておる私達だけなりともです。教祖の神様が、ね。天地の親神様に対して、どうぞ、お向きを変えてくだされと。悪神、邪神とばかり思うておった、金神様の、いわば、ご信仰から始まり、金神様の前に額づかれての願いであった。知って向かえば命をとる、知らずに向こうても眼をとるというほどしの、新たかな、いわば、金神様。ならばです、また、目を与えてくださることも出来るだろう。また、命を次ぎ穂してくださることも出来る神様に違いはない。目を取ったり、命を取ったりなさる神様なら、それをまた、与えてくださることも出来るに違いはないと、悪神、邪神とした、恐れおののいておる神様へ向かってお詫びをし抜かれた。ね。そこに、お詫びをし抜かれていくうちに、天地金の神と言う、いわゆる、お向きを変えなさった。そういう事も、人間氏子の、本当の真の幸せを願うておられる神様であるという、神様の心のうちを聞かされた、金光大神がです。ね。神頼みを、それこそ、死んだと思うての、欲を離しての御取次ぎに、専念されたわけでございます。ね。ですからもう、今こそ、私共がです。ね。その、天地の親神様のです。今、こういう世の中の状態の中にあってです。ね。氏子分かってくれという、言うなら、切ない願いが、暖冬異変、社会の異変、様々な社会が取り組んでおる難儀な問題という形になって現れておると、私は思わせてもらう。そこで、私共がです。いわゆる、お向きを変えてくだされと言う信心。お詫びに徹する以外にはないのである。天地の親神様のです。それこそ、慈愛あふれる、ね。御神願に触れなければならない。今は、丁度、その、悪神、邪神の目を見せておられるような感じがするけれども、その事とても、神様が、ね。氏子分かってくれよ。氏子信心しておかげを受けてくれよという切なる願いが、言うても言うても分からんところから、やむにやまれん働きが、天地の上に、このような異変が、私は起こっておると頂かなければならないと、ね。そこで、私共は、大は只今申しますように、世界、社会のことに、から、ね。小は、自分自身の心の上にです。ね。お祓いを受けさせていただくことが、ね。それで、私のお詫びが少しでも祓われるなら、有難いと思うて、月次祭ぐらいは、お祓いの受けられる時間ぐらい、どうとか工夫して下さい。ね。同時に、日々の生活の上にです、ね。言いたいこともある、したいこともある。それが、我情である場合、我欲である場合が殆どであろう。お互いの場合。ですから、ここは言うてはならぬ。それも、お詫びの印だと思うたら、それが、有難く楽しく出来る。ね。ああしたい、こうしたいと思う。そういう事柄が、今までは、それを平気でやってのけておって、御無礼の上塗りをしておるような自分たちを一つ、再発見させてもらって、ね。本気で、お詫びの姿勢をとらせていただく。ね。お詫びの印に改まらせて貰う。ね。それも、お詫びのしるし。これもお詫びのしるし。
初めに申し上げました、親教会の、おー、報徳祭が、ね。まあ、ここでは、何時もお参りされる方達が、何時も決っておる。だから、その方達だけが参れば良いというのではない。ね。それは、なるほど時間もかかろう、お金も要ろう。けれどもです、例えばです、お礼の足りないお詫びの印に、一つ、今度は、お参りさせていただこうという事になったら、私は、ね。お礼の足りないお詫びの印に、神様が受けて下さると、私は思うです。ね。そういう意味でです、ね。三月三日の報徳祭には、どうぞ、沢山お参りを頂いて、まあ、お礼の印にもですけれども、お礼の足りてない、日頃。そのお詫びの印に、一つ、ご参拝のおかげを頂きたいと、私は思うております。皆さんも、どうぞ、よろしくお願いします。今月は、いよいよ、只今申しましたように、ね。大、大きいことは、世界天下のことから、または、自分自身、自分一家の上にです。本当におかげを頂きすぎとるほどしにおかげを頂いておる。人間の知恵力で、それこそ、月の世界にまで行けれるほどしに、進展のおかげを頂いてきておる。その事に対するところのお礼。その、お礼を申しあがても、お礼を申し上げても足りない、そのお詫びを心からさして頂き、そして、ここに取り組んでおる、公害なら、公害という問題をです。人間の、そうした思い上がりから、こういうお気付けを頂いておるんだと、私共は、気付かせていただいて、ね。世界中の氏子に変わって、お詫びをさせて頂くというようなです。大きな信心をさしていただきたいと思うのです。どうぞ、よろしくお願いいたします。